LOG IN

現象の捉え方

by 有賀たいぞう

宇宙的に言えば、「運が良い」という現象はない、「運が悪い」という現象もないと思う。同じように「幸運」という現象はないし、「不幸」という現象もないと思う。起きる現象は、すべて中立。現象をどのように捉えるか、人それぞれ違うだけ。

しかし、私自身に関して言えば、「とても運が良い」「幸運なことばかり起こっている」と思っている。このように思うのは自由だ。

これまで生きてきて、ものすごく困ったり、解決できない問題が起こったことはない。長い間生きていれば、トラブルと思えるようなことはある。多くの人と関わりを持つ人ほど、トラブルのようなことが起きるだろう。トラブルと捉えれば不幸な出来事になるが、自然現象だと思えば、中立な現象になる。

何もない平坦な道をひたすら歩くのは、つまらない。都会では、長い距離を歩いても、いろいろなお店があるので、そんなに気にならない。ドライブをするときには、多少のカーブがあった方が楽しい。同じように、人生も、多少の紆余曲折あった方が楽しいというものだ。

私が今まで生きてきて、一番大きなトラブルのような出来事は、交通事故かもしれない。小学生のとき、ブルドーザーに轢かれてしまったのだ。ブルドーザーに轢かれた人って、ものすごく珍しいと思う。

家の近くで道路工事をしていて、ブルドーザーが稼働していた。ちょうど家へ向かう方向に進んでいたので、すぐ後ろを歩いていた。そのブルドーザーが、突然バックしてきた。私は、よそ見をしていて気が付かず、足を轢かれてしまった。その結果、足の指を骨折、今でも足にはキャタピラの痕が残っている。

2回手術をし、それぞれ2ヶ月位入院した。ちょうど成長期で、ギプスをはめている期間が長かったため、左右の足の大きさが違う。そのため、紐が付いた靴しか買ったことがない。足の大きさが違うので、靴を履くのは不自由している。

では、私がブルドーザーに轢かれたのは、不幸な出来事だったのでしょうか。

私がもう少し中央寄りにいたら、ブルドーザーの運転手は私に気が付かず、死んでしまったかもしれない。あと1秒、ブルドーザーを停めるのが遅かったら、もっと大きな傷を負い、一生歩けなかったと思う。

こう考えると、ブルドーザーに轢かれたことは、そんなに大したことではない、と思えてくる。

ブルドーザーに轢かれるのは100万人に一人くらいのこと、さらには軽症で済んだのは、もっと少ないと思う。私は、滅多に見ることがない珍獣のような存在だ。(笑)

古来から、龍、鳳凰、麒麟のような珍獣を見ると、幸運なことが起きると言われてきた。それよりも、私自身が珍獣になると、もっとすごいことが起きるのではないだろうか。

最近読んだ書籍の中で、水原創さんという人がこんなことを書いていた。

ー大きな交通事故に遭い、生死をさまよったのである。右半身不随となり、半年間の車いす生活をした。最初、救急病棟にいた時は、「無感動」「無感覚」状態で何も考えられない状態だった。

しかし、数日後の深夜不思議な直感が全身をおそった。右半身不随になったベットの上で、「もし誰かがこの苦しみを負わなければならないなら、私にその苦しみを担当させてくださってありがとう」という思いがこみ上げてきたのだ。

その次の日から、少しづつ右の手足が動くようになり医者も驚嘆するほどの奇跡的回復を遂げたのである。家族や知人など周りは皆、深刻になっていたのに、何故か私の内面は感謝で溢れていた。ー(『シュタイナー的生活を求めて春編: 春のこよみ』より)

水原さんの考え方は素晴らしいと思う。どんなことが起こっても、「もし誰かがこの苦しみを負わなければならないなら、私にその苦しみを担当させてくださってありがとう」と思えたならば、それは苦しみではなく喜びになるだろう。

私たちは、日常と違う現象が起きると、幸福と感じたり、不幸と感じたりしがちだ。

古来、人間は、日常と違う現象が起きると、幸運の前兆だと捉えてきた。例えば、虹、天使のはしご、日輪、流れ星・・・。もし、滅多に見ないような現象、滅多に起きないような理不尽な出来事が起きたら、それは幸運の前兆かもしれない。

日常と変わった滅多に起きないような出来事があったとき、それを幸運な現象、幸運の前兆と捉える人もいるし、不幸な現象と捉える人もいる。運の良し悪しがあるとするならば、現象の捉え方、見方で決まるような気がする。

OTHER SNAPS