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しさくは ぼくの ために ある

by 有賀たいぞう

私が見ているもの、感じているものは、ほかの人も同じように見ている、感じていると思いがちだ。しかし、同じものを見ていても、人によって全然違うように感じていることがある。中には、見たくても見ることができない、感じたくても感じることができない人さえいる。

目が見えて、耳が聞こえること、これは当たり前のように思う。私は、生まれてこのかた、目が見えなかったことはないし、耳が聞こえなかったこともない。ただ、視力は弱いので、視力が良い人とは、違う景色を見ているようだ。月に1回か2回、車を運転するときにメガネをかけるが、いつもと違う風景に驚くことがある。

世の中には、「障害者」と呼ばれる人がいる。「障害者」という呼び方自体、おかしいんじゃないだろうか。健常者と障害者は、どこで区別するのだろうか。健常者と言われている人でも、障害者以上に異常な人もいる。それで、「障害者」「健常者」という言葉は、あまり使いたくない。(ここでは、話がわかりやすいように、「障害者」「健常者」という言葉を使う。)

障害者として有名な人物の一人にヘレン・ケラーがいる。ヘレン・ケラーは、1歳半のとき、髄膜炎に罹り、視力と聴力を失った。このように視力と聴力を失った人は、日本にも数少ないが実在している。

福島智さんは、9歳のとき両目が見えなくなり、14歳のとき右耳が聞こえなくなり、18歳のとき左耳も聞こえなくなり、全盲ろうになった。それでも、福島智さんは、全盲ろう者として、日本で初めて大学に進学した。そのせいもあって、福島智さんは、「日本のヘレン・ケラー」と呼ばれることがある。(ヘレン・ケラーも、全盲ろう者として大学へ進学した。)

その後、福島智さんは、東京大学の教授になった。全盲ろう者が、東京大学の教授になったのは、初めてのことである。これって、すごいことだと思う。健常者であっても、勉学をし、学問を極めることは、ものすごく困難なことだ。それなのに、全盲ろう者である福島智さんは、ハンディがありながら、それを極めた。

最近、福島智さんが書いた『ぼくの命は言葉とともにある』『ことばは光』を再読し、福島智さんのことを書いた『ゆびさきの宇宙』(生井久美子著)を読んでみた。(以下、福島智さんの言葉は、福島智さんの著書より引用している。)

私は、目が見え、耳を聞こえるので、全盲ろう者は、どんな世界で生きているのかわからない。全盲ろう者は、健常者とは、全然違う世界に生きているのだろう、と思う。

香川県の善通寺には『戒壇めぐり』というのがある。これは、本堂の地下へ降りて、真っ暗な通路を歩く。本当に真っ暗なので、壁に手をつきながら進んで行く。これは5分位で歩き終わるが、真っ暗闇の中にいると、先が見えない恐怖を感じる。私は5分後には、明るい空間へ出ることができるが、目が見えない人は一生涯、このような状態が続く。私には、想像だにできない世界だ。

『ダイアログ・イン・ザ・ダーク』という企画も、目が見えない人が案内人になって暗闇の中を歩いて行く。これは、大阪で常設?されている。(東京では、現在、ビジネス向けしかしていない。)この企画は、とても面白い試みだと思う。

私が住んでいるところは、森に囲まれていて、月明かりがないときは、本当に真っ暗闇になることがある。真っ暗闇の中にいると、自分という存在自体が、本当に存在するのか疑わしくなり、私も暗闇と同一化してしまう。人間は、相対的な関係性において、自分の存在を認識する生き物なのかもしれない。

福島智さんは、「光」と「音」を失ったとき、こう感じたと言う。

―私はいきなり自分が地球上からひきはがされ、この空間に投げ込まれたように感じた。自分一人が空間のすべてを覆い尽くしてしまうような、狭くて暗く静かな「世界」。ここはどこだろう。私は限界のない暗黒の真空の中で呻吟していた。―

―古代の地層の中の 琥珀 に封じられた昆虫のように、鮮明な姿のまま、記憶は透明な悲しみとともに 凝結 されている。―

「光」と「音」がない世界、私には想像できない。目が見えない人は、健常者には、想像ができない世界で生きているのだろう。さらに、目が見えないだけでなく、耳が聞こえない人は、・・・・・私には未知の世界で全く想像がつかない。永遠の時間が流れるような世界なのだろうか。

福島智さんが全盲ろうになったとき、同級生のMさんが、福島智さんの手のひらに指先でそっと文字を書いた。

「しさくは きみの ために ある」 と。

福島智さんは、このときの情景をこう表現している。

―その瞬間、私は確かにある美しい光を見た。私が直面した過酷な運命を目の当たりにして、それでもなお私に残されたもの、新たな意味を帯びて立ち現れたもの、すなわち「言葉と思索の世界」を、彼はさりげなく示してくれたのだった。―

同級生が書いた「しさくは きみの ために ある」という文言は、感動的だ。この話を読んで、私はこう思った。

「しさくは ぼくの ために ある」と。

もっと、深く思索しよう。

目が見える、耳が聞こえる、それだけでも、満ち足りた幸せの海の中に生きている。人は、当たり前にあるものに対して、感謝をしない。幸せの海の中に住んでいるのに、「あれが足りない」「もっと、あったらいいなあ」「夢を叶えたい」なんて、ふざけたことを考えている。

親は、子供が生まれる前は、「五体満足で生まれてくれればいい」と思う。しかし、子供が生まれて成長していくと、子供に対して、過度な期待をしてしまいがちだ。

五体満足で生まれて、今、こうして生きていられることに対して、どれくらいの感謝ができるか。人間の本質は、これだけなのかもしれない。

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